スライダーで、動かしていた数字
確率論的DCFのツールでは、 WACC をスライダーで動かせるようにしました。 値を変えると企業価値が大きく動くことも示しました。
ただ、その値をどう決めるのかは書いていません。 「WACC 7%」と入力する根拠を、こちらは示さないまま 読み手に決めてもらっていたことになります。
WACC を、分解する
WACC(加重平均資本コスト)は、 株主が求める収益率と、債権者が求める収益率を、資本構成で加重平均したものです。
| 記号 | 意味 | どこから取るか |
|---|---|---|
| E | 株主資本の時価 | 時価総額(観測できる) |
| D | 有利子負債 | 財務諸表(簿価で代用が一般的) |
| Rd | 負債コスト | 支払利息÷有利子負債、または社債利回り |
| t | 実効税率 | 法定実効税率、または実績 |
| Re | 株主資本コスト | 観測できない。推定するしかない |
問題は Re です。株主が「この会社になら何%で投資する」と 表明しているわけではありません。どこにも書いていない数字を、 何らかの方法で推定する必要があります。
CAPM で、Re を組み立てる
最も広く使われるのが CAPM(資本資産価格モデル)です。
「リスクゼロで得られる利回り(Rf)に、市場全体のリスクを取る対価(MRP)を、 その銘柄の感応度(β)だけ上乗せする」というモデルです。 市場より大きく動く銘柄(β>1)には、より高い収益率が求められる、という理屈です。
式は単純ですが、3つとも「決める」必要があります。
| 項目 | 決めごと |
|---|---|
| Rf | どの国債か(10年? 20年?)、いつ時点か |
| β | 推定期間、観測頻度、対象とする市場指数、外れ値の処理 |
| MRP | 推定方法(後述)。幅がきわめて大きい |
βは、推定条件で動く
βは、市場のリターンに対する個別銘柄のリターンの回帰係数です。 過去データから計算しますが、どの過去を使うかで値が変わります。
期間を変える
真のβが 1.2 になるよう作った合成データで、推定期間だけを変えます。 真値が分かっているので、推定のずれを測れます。
| 推定期間 | 点数 | 推定β | 真値との差 |
|---|---|---|---|
| 直近1年 | 250 | 1.272 | +0.072 |
| 直近2年 | 500 | 1.178 | −0.022 |
| 直近3年 | 750 | 1.206 | +0.006 |
| 約5年 | 1,250 | 1.170 | −0.030 |
同じ2年でも、ずらすと変わる
期間の長さを 2年に固定し、開始時点だけをずらしました。
開始 0日目 β = 1.118 開始 125日目 β = 1.114 開始 250日目 β = 1.165 開始 375日目 β = 1.176 開始 500日目 β = 1.174 開始 625日目 β = 1.193 開始 750日目 β = 1.178 幅 1.114 〜 1.193(差 0.079)
観測頻度を変える
| 頻度 | 点数 | 推定β | 真値との差 |
|---|---|---|---|
| 日次 | 500 | 1.178 | −0.022 |
| 週次 | 100 | 1.248 | +0.048 |
| 月次 | 23 | 1.037 | −0.163 |
月次は23点しかありません。2年ぶんのデータでも、 月次に集約すればサンプルは激減します。 推定が不安定になるのは当然です。
どの市場を基準にするか
βは「何に対する感応度か」で変わります。 日経225に対してか、TOPIXに対してか。同じ銘柄でも値が違います。
さらに市場をまたぐと、別の問題が出ます。 日本と米国では取引時間が違うため、同じ日付でも 反映されている情報が半日ずれます。 日本の終値は、その日の米国市場の動きを知らない。
データの不連続にも壊される
推定条件だけでなく、元データの扱いでもβは動きます。 株式分割や併合、データの欠損があると、 その日のリターンが数百%として計算されてしまうことがあります。
// 真のβ = 1.0 の系列(1,200点) 外れ値なし β = 0.999 258%の異常値を1点混ぜる β = 1.626 ±25%超を除外後 β = 0.999 (1点を除外)
1,200点のうち、たった1点です。 それでβが 0.6 も動きました。回帰は 平均から遠い点ほど強く引っ張られるためです。
市場リスクプレミアムには、正解がない
MRP は「市場全体に投資することで、無リスク資産より余分に得られる収益率」です。 これが3つのうちで最も幅が大きい項目でした。
① ヒストリカル法 — 過去の実績から
過去の市場リターンと国債利回りの差を平均します。単純に見えますが、決めごとが3つあります。
| 決めごと | 選択肢と影響 |
|---|---|
| 期間 | 戦後全期間 / 直近30年 / 直近10年。日本株は期間で大きく変わる |
| 平均の取り方 | 算術平均 or 幾何平均。0.6ポイント程度の差が出る |
| 無リスク資産 | 短期国債 or 長期国債。どちらを引くか |
算術平均 6.00 % // 単純に足して割る 幾何平均 5.38 % // 複利で均した収益率 差 0.62 ポイント
算術平均は1期間の期待値、幾何平均は長期の実現収益率を表します。 DCF のように複数年を割り引く用途では、どちらが適切か議論があります。
② インプライド法 — 現在の株価から逆算
「いまの株価が正しいとすれば、投資家は何%を期待しているか」を逆算します。 配当割引モデルを使うと、こうなります。
→ MRP = 期待収益率 − Rf 過去ではなく「現在の市場が織り込んでいる値」を推定する方法です。
| 前提 | 期待収益率 | MRP |
|---|---|---|
| 配当利回り 2.0% / 成長率 3.0% | 5.0 % | 4.0 % |
| 配当利回り 2.5% / 成長率 2.5% | 5.0 % | 4.0 % |
| 配当利回り 1.5% / 成長率 4.0% | 5.5 % | 4.5 % |
配当利回りは観測できますが、期待成長率は観測できません。 結局、別の推定値を持ち込むことになります。
③ サーベイ法 — 実務家に聞く
アナリストや企業財務担当者への調査結果を使う方法です。 調査によりますが 5〜7% 程度の回答が多いとされます。 ただし「誰に、いつ聞いたか」に依存します。 市場が好調なときと不調なときで、回答は動きます。
連鎖して、企業価値が動く
架空の会社を用意して、影響を測ります。 実在の企業ではありません——数字の動き方を見るための設定です。
| 項目 | 値 |
|---|---|
| 時価総額 E | 7,000 億円 |
| 有利子負債 D | 3,000 億円 |
| 負債コスト Rd | 1.2 % |
| 実効税率 t | 30 % |
| 無リスク利子率 Rf | 1.0 % |
| FCF(初年度) | 100 億円 |
| 成長率 g | 1.0 %(5年間+継続価値) |
βの推定幅だけで
MRP は 5.5% に固定し、§4 で得たβの範囲を当てはめます。
| β | Re | WACC | 企業価値 | 基準比 |
|---|---|---|---|---|
| 1.037(月次) | 6.70 % | 4.94 % | 2,561 億 | +13.8 % |
| 1.114 | 7.13 % | 5.24 % | 2,382 億 | +5.8 % |
| 1.178(日次2年) | 7.48 % | 5.49 % | 2,251 億 | 基準 |
| 1.248(週次) | 7.86 % | 5.76 % | 2,123 億 | −5.7 % |
| 1.272(1年) | 8.00 % | 5.85 % | 2,083 億 | −7.5 % |
2,083 〜 2,561億円。1.23倍(23%)の開きがあります。 将来キャッシュフローの見積もりは一切変えていません。 βの推定条件を変えただけです。
MRP の幅は、もっと効く
| MRP | WACC | 企業価値 | 基準比 |
|---|---|---|---|
| 4.0 % | 4.25 % | 3,107 億 | +38.1 % |
| 5.0 % | 5.08 % | 2,479 億 | +10.1 % |
| 5.5 % | 5.49 % | 2,251 億 | 基準 |
| 6.5 % | 6.31 % | 1,901 億 | −15.5 % |
| 8.0 % | 7.55 % | 1,542 億 | −31.5 % |
永久成長率も同様に効きます。1.0% → 1.5% で +13.1%。 分母が(WACC − g)なので、両方が同じ方向に動くと影響が増幅されます。
FCF ÷ (WACC − g) です。
差が 0.26 ポイントまで縮むと、企業価値は 3.9兆円 と表示されました。
基準の 17倍です。
計算式は正しく動いていますが、その数値に意味はありません。
DCF はこの領域で使えなくなる——それも知っておく必要があります。
組み立てて、みる
βを実データから推定し、そこから企業価値までを計算します。 推定期間と観測頻度を切り替えると、βが変わり、 連鎖して企業価値が動きます。
頻度を月次にするだけで、βが動き、企業価値が変わります。 MRP のスライダーを 4% から 8% まで動かせば、その影響の大きさも分かります。 どれも「間違った操作」ではありません—— すべて実務で使われる範囲です。
それでも、使うために
ここまで書くと DCF が無意味に思えるかもしれませんが、そうではありません。 使い方を変えればよいだけです。
| やること | 理由 |
|---|---|
| 前提を明記する | 「β=1.18(日次2年・対日経225)、MRP=5.5%(ヒストリカル算術平均)」 |
| 幅で出す | 単一の値ではなく、レンジや分布で示す |
| 感度分析を添える | どのパラメータが効くかを示す。この記事なら MRP |
| 比較なら前提を揃える | 他社比較では、同じ推定条件で全社を計算する |
| 逆算してみる | 「いまの株価が正しいとすれば WACC は何%か」を出す |
確率論的DCFで 「不確実性は可視化できても消せない」と書きました。 今回分かったのは、その不確実性がキャッシュフローの見積もりだけでなく、 割引率の側にも同じだけあるということです。
まとめ
「WACC 5.5%」という表示は、いくつもの決めごとを1つの数字に畳んだものでした。 畳まれた中身を開くと、そこには観測値ではなく選択が並んでいます。
この記事のまとめ
- WACC のうち観測できるのは時価総額・負債・税率くらい。Re は推定するしかない。
- CAPM の3項目(Rf・β・MRP)はすべて「決める」もの。
- βは推定期間で 1.170 〜 1.272、頻度で 1.037 〜 1.248 に動く。
- 同じ2年でも開始をずらすと 1.114 〜 1.193。統計的に一意には決まらない。
- βの推定幅だけで、企業価値が1.23倍(23%)変わる。
- 1,200点中1点の異常値でβが 0.999→1.626 に壊れる。分割・欠損の処理が要る。
- MRP は推定方法(ヒストリカル/インプライド/サーベイ)で4〜8%の幅。
- MRP の幅だけで企業価値が2.01倍。βより影響が大きい。
- 対処は前提の明記・幅での提示・感度分析。単一の値を信じないこと。




