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企業価値評価

割引率は、どこから来るのか
WACC・CAPM・βを分解する

DCF に「WACC 5.5%」と入力します。その数字はどこから来たのか。 分解してみると、実際に観測できる値はごくわずかでした。 βは推定条件で 1.04 〜 1.27 に動き、 市場リスクプレミアムに至っては企業価値を2倍変えます

WACC CAPM β 感度分析

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スライダーで、動かしていた数字

確率論的DCFのツールでは、 WACC をスライダーで動かせるようにしました。 値を変えると企業価値が大きく動くことも示しました。

ただ、その値をどう決めるのかは書いていません。 「WACC 7%」と入力する根拠を、こちらは示さないまま 読み手に決めてもらっていたことになります。

割引率は、DCF で最も結論を左右する数字です。 将来キャッシュフローの見積もりより効くことも珍しくありません。 その数字がどこから来るのかを、今回は分解します。
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WACC を、分解する

WACC(加重平均資本コスト)は、 株主が求める収益率と、債権者が求める収益率を、資本構成で加重平均したものです。

WACC = E/(D+E) × Re + D/(D+E) × Rd × (1 − t) =比較的しっかり観測できるもの/=この先さらに分解が必要なもの
記号意味どこから取るか
E株主資本の時価時価総額(観測できる)
D有利子負債財務諸表(簿価で代用が一般的)
Rd負債コスト支払利息÷有利子負債、または社債利回り
t実効税率法定実効税率、または実績
Re株主資本コスト観測できない。推定するしかない

問題は Re です。株主が「この会社になら何%で投資する」と 表明しているわけではありません。どこにも書いていない数字を、 何らかの方法で推定する必要があります。

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CAPM で、Re を組み立てる

最も広く使われるのが CAPM(資本資産価格モデル)です。

Re = Rf + β × MRP Rf=無リスク利子率/β=市場に対する感応度/MRP=市場リスクプレミアム
考え方

「リスクゼロで得られる利回り(Rf)に、市場全体のリスクを取る対価(MRP)を、 その銘柄の感応度(β)だけ上乗せする」というモデルです。 市場より大きく動く銘柄(β>1)には、より高い収益率が求められる、という理屈です。

式は単純ですが、3つとも「決める」必要があります

項目決めごと
Rfどの国債か(10年? 20年?)、いつ時点か
β推定期間、観測頻度、対象とする市場指数、外れ値の処理
MRP推定方法(後述)。幅がきわめて大きい
ここまでで、WACC は「観測値」ではなくなりました。 時価総額と負債は数えられますが、 Re の中身は、すべてこちらの選択です。 同じ企業について、違う人が計算すれば違う WACC が出ます。
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βは、推定条件で動く

βは、市場のリターンに対する個別銘柄のリターンの回帰係数です。 過去データから計算しますが、どの過去を使うかで値が変わります。

β = Cov(r個別, r市場) / Var(r市場) 共分散を市場の分散で割ったもの。回帰直線の傾きに一致します。

期間を変える

真のβが 1.2 になるよう作った合成データで、推定期間だけを変えます。 真値が分かっているので、推定のずれを測れます。

推定期間点数推定β真値との差
直近1年2501.272+0.072
直近2年5001.178−0.022
直近3年7501.206+0.006
約5年1,2501.170−0.030

同じ2年でも、ずらすと変わる

期間の長さを 2年に固定し、開始時点だけをずらしました。

2年窓を125日ずつずらす
開始    0日目   β = 1.118
開始  125日目   β = 1.114
開始  250日目   β = 1.165
開始  375日目   β = 1.176
開始  500日目   β = 1.174
開始  625日目   β = 1.193
開始  750日目   β = 1.178
                幅 1.114 〜 1.193(差 0.079)

観測頻度を変える

頻度点数推定β真値との差
日次5001.178−0.022
週次1001.248+0.048
月次231.037−0.163

月次は23点しかありません。2年ぶんのデータでも、 月次に集約すればサンプルは激減します。 推定が不安定になるのは当然です。

どの市場を基準にするか

βは「何に対する感応度か」で変わります。 日経225に対してか、TOPIXに対してか。同じ銘柄でも値が違います。

さらに市場をまたぐと、別の問題が出ます。 日本と米国では取引時間が違うため、同じ日付でも 反映されている情報が半日ずれます。 日本の終値は、その日の米国市場の動きを知らない。

休場日も揃いません。 日本の取引日は年間およそ245日、米国は252日。 突き合わせられるのはその共通部分だけです。 デモで市場をまたぐ組み合わせを選ぶと、 使える日数が減ることが確認できます。

データの不連続にも壊される

推定条件だけでなく、元データの扱いでもβは動きます。 株式分割や併合、データの欠損があると、 その日のリターンが数百%として計算されてしまうことがあります。

1点の異常値が回帰に与える影響
// 真のβ = 1.0 の系列(1,200点)
外れ値なし            β = 0.999
258%の異常値を1点混ぜる   β = 1.626
±25%超を除外後        β = 0.999  (1点を除外)

1,200点のうち、たった1点です。 それでβが 0.6 も動きました。回帰は 平均から遠い点ほど強く引っ張られるためです。

分割調整済みの株価を使うのが基本です。 それでも欠損や配当落ちで不連続が残ることがあります。 デモでは日次で ±25% を超える変化を除外していますが、 この 25% という線にも根拠はありません—— また一つ、決めごとが増えました
さらに短くすると、値が崩壊します。 月次・1年では 11点 しか残らず、βは 0.271 と出ました。 真値 1.2 の4分の1です。 市場との関係が変わったのではなく、単に推定できていない—— それでも数字は返ってくるので、そうと気づかずに使えてしまいます
どれが「正しい」βでしょうか。 実務では日次2年、週次5年などが使われますが、 統計的に決まるわけではありません。 情報提供会社ごとに条件が違い、同じ銘柄でも公表βが一致しないのは、 このためです。
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市場リスクプレミアムには、正解がない

MRP は「市場全体に投資することで、無リスク資産より余分に得られる収益率」です。 これが3つのうちで最も幅が大きい項目でした。

① ヒストリカル法 — 過去の実績から

過去の市場リターンと国債利回りの差を平均します。単純に見えますが、決めごとが3つあります。

決めごと選択肢と影響
期間戦後全期間 / 直近30年 / 直近10年。日本株は期間で大きく変わる
平均の取り方算術平均 or 幾何平均。0.6ポイント程度の差が出る
無リスク資産短期国債 or 長期国債。どちらを引くか
算術平均と幾何平均の差(10年のリターン列の例)
算術平均   6.00 %      // 単純に足して割る
幾何平均   5.38 %      // 複利で均した収益率
差         0.62 ポイント

算術平均は1期間の期待値、幾何平均は長期の実現収益率を表します。 DCF のように複数年を割り引く用途では、どちらが適切か議論があります

② インプライド法 — 現在の株価から逆算

「いまの株価が正しいとすれば、投資家は何%を期待しているか」を逆算します。 配当割引モデルを使うと、こうなります。

期待収益率 = 配当利回り + 期待成長率
MRP = 期待収益率 Rf 過去ではなく「現在の市場が織り込んでいる値」を推定する方法です。
前提期待収益率MRP
配当利回り 2.0% / 成長率 3.0%5.0 %4.0 %
配当利回り 2.5% / 成長率 2.5%5.0 %4.0 %
配当利回り 1.5% / 成長率 4.0%5.5 %4.5 %

配当利回りは観測できますが、期待成長率は観測できません。 結局、別の推定値を持ち込むことになります

③ サーベイ法 — 実務家に聞く

アナリストや企業財務担当者への調査結果を使う方法です。 調査によりますが 5〜7% 程度の回答が多いとされます。 ただし「誰に、いつ聞いたか」に依存します。 市場が好調なときと不調なときで、回答は動きます。

3つの方法で、答えが揃いません。 ヒストリカルで6%、インプライドで4%、サーベイで6.5%—— どれも間違いではなく、測っているものが少しずつ違います。 実務では 4〜8% の範囲が使われますが、 その幅が企業価値に何をもたらすかを次に見ます。
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連鎖して、企業価値が動く

架空の会社を用意して、影響を測ります。 実在の企業ではありません——数字の動き方を見るための設定です。

項目
時価総額 E7,000 億円
有利子負債 D3,000 億円
負債コスト Rd1.2 %
実効税率 t30 %
無リスク利子率 Rf1.0 %
FCF(初年度)100 億円
成長率 g1.0 %(5年間+継続価値)

βの推定幅だけで

MRP は 5.5% に固定し、§4 で得たβの範囲を当てはめます。

βReWACC企業価値基準比
1.037(月次)6.70 %4.94 %2,561 億+13.8 %
1.1147.13 %5.24 %2,382 億+5.8 %
1.178(日次2年)7.48 %5.49 %2,251 億基準
1.248(週次)7.86 %5.76 %2,123 億−5.7 %
1.272(1年)8.00 %5.85 %2,083 億−7.5 %

2,083 〜 2,561億円。1.23倍(23%)の開きがあります。 将来キャッシュフローの見積もりは一切変えていません。 βの推定条件を変えただけです。

MRP の幅は、もっと効く

MRPWACC企業価値基準比
4.0 %4.25 %3,107 億+38.1 %
5.0 %5.08 %2,479 億+10.1 %
5.5 %5.49 %2,251 億基準
6.5 %6.31 %1,901 億−15.5 %
8.0 %7.55 %1,542 億−31.5 %
1,542 〜 3,107億円。2.01倍です。 MRP をどう推定するかだけで、企業価値が2倍変わります。 そして §5 で見たとおり、この範囲はどれももっともらしい推定値でした。

永久成長率も同様に効きます。1.0% → 1.5% で +13.1%。 分母が(WACC − g)なので、両方が同じ方向に動くと影響が増幅されます

WACC と g が近づくと、値が発散します。 継続価値は FCF ÷ (WACC − g) です。 差が 0.26 ポイントまで縮むと、企業価値は 3.9兆円 と表示されました。 基準の 17倍です。 計算式は正しく動いていますが、その数値に意味はありません。 DCF はこの領域で使えなくなる——それも知っておく必要があります。
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組み立てて、みる

βを実データから推定し、そこから企業価値までを計算します。 推定期間と観測頻度を切り替えると、βが変わり、 連鎖して企業価値が動きます。

Interactive · β → WACC → value
割引率の組み立て
βは実データ(指数どうしの関係)から推定します。取得できるのは最長2年ぶんです(本文の3年・5年は合成データでの検証)。財務値は架空の設定です — 実在企業の評価ではありません。
に対して
合成データで表示しています(取得すると実データに切り替わります)
※ 日本の銘柄には日経225、米国の銘柄には S&P 500 など、同じ市場の指数を選んでください。休場日が違うと突き合わせできる日が減ります。期間が短いと、週次・月次に集約したときの点数が足りなくなります。
※ 取得元を3段階で切り替えます。1段目が失敗しても、2段目以降で取得できていれば問題ありません(ブラウザのコンソールには失敗が記録されます)。
推定期間 2 年
市場リターン(横)× 個別リターン(縦)
無リスク利子率 1.0 %
市場リスクP 5.5 %
永久成長率 1.0 %

頻度を月次にするだけで、βが動き、企業価値が変わります。 MRP のスライダーを 4% から 8% まで動かせば、その影響の大きさも分かります。 どれも「間違った操作」ではありません—— すべて実務で使われる範囲です。

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それでも、使うために

ここまで書くと DCF が無意味に思えるかもしれませんが、そうではありません。 使い方を変えればよいだけです。

やること理由
前提を明記する「β=1.18(日次2年・対日経225)、MRP=5.5%(ヒストリカル算術平均)」
幅で出す単一の値ではなく、レンジや分布で示す
感度分析を添えるどのパラメータが効くかを示す。この記事なら MRP
比較なら前提を揃える他社比較では、同じ推定条件で全社を計算する
逆算してみる「いまの株価が正しいとすれば WACC は何%か」を出す
最後の「逆算」は、実務的に有効です。 DCF で理論価値を出して株価と比べるのではなく、 現在の株価が織り込んでいる前提を読み取る。 「この株価は MRP 4% を前提にしている。それは楽観的すぎないか」 という議論の形にできます。

確率論的DCFで 「不確実性は可視化できても消せない」と書きました。 今回分かったのは、その不確実性がキャッシュフローの見積もりだけでなく、 割引率の側にも同じだけあるということです。

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まとめ

「WACC 5.5%」という表示は、いくつもの決めごとを1つの数字に畳んだものでした。 畳まれた中身を開くと、そこには観測値ではなく選択が並んでいます。

この記事のまとめ

  • WACC のうち観測できるのは時価総額・負債・税率くらい。Re は推定するしかない。
  • CAPM の3項目(Rf・β・MRP)はすべて「決める」もの
  • βは推定期間で 1.170 〜 1.272、頻度で 1.037 〜 1.248 に動く。
  • 同じ2年でも開始をずらすと 1.114 〜 1.193。統計的に一意には決まらない。
  • βの推定幅だけで、企業価値が1.23倍(23%)変わる。
  • 1,200点中1点の異常値でβが 0.999→1.626 に壊れる。分割・欠損の処理が要る。
  • MRP は推定方法(ヒストリカル/インプライド/サーベイ)で4〜8%の幅
  • MRP の幅だけで企業価値が2.01倍。βより影響が大きい。
  • 対処は前提の明記・幅での提示・感度分析。単一の値を信じないこと。

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